「三田さん、ちょっとこの書類、見てもらえません?」
「あ、おうおう、ええよええよ」
女の声がして、我に還った。俺の前には企画書がひらりと舞い込み、手渡した女、
うちの課の独身女性社員の美穂はもう
俺の机から背を向けて離れていこうとしている。俺の鼻には彼女の整髪料の香りが舞い込んできた。
そう、この女も俺好みのロングヘアや。彼女のふり返り様に豊かなウェーブのかかった髪の毛の先が、
もう少しで俺の顔に当たるかと思うたが、そんな夢のような期待などどこ吹く風。既に彼女は
自分のデスクに戻り、ほおづえをつきながら少し遠くを見つめるような目つきをしたまま
物思いにふけっているようや。何を考えてるのかは俺にはわからん。せやけどそのしぐさは
十分に俺の男の想像力をかき立てるものがあった。
「この子が俺のモンになったらええのに....」
勿論俺には彼女も好意を寄せてるやろう。社内では最も活動的で、ルックスもええ方の俺の他に
彼女がええ感じやなと思う男は少ないはずや。いや、これだけ美穂の近くにいる男である俺が、他の
奴よりも絶対に有利や。何かの機会さえあったら彼女は俺のモンにすることが出来る。きっとそうや。
そうなれば彼女の豊かな黒髪も、少し物憂げなまなざしも全て俺のものに出来る。ああ、
そうなりたいのー。けどや、相手は社内の子。どこでどうなるやわからんし、後始末が自分に
でけるのか?。それさえうまくいくのなら俺はすぐにでもこの女を誘うんやが。
「まいど、三田ハン!どないだ?」
大きな声がいきなり俺の頭をどついたような気がする。この男。榊は俺とは同い年の営業
マンや。頭はええんやが、人の会社にサングラスかけて野球帽かぶって来るようなセンスのない
男やから、おおよそ女にもてるような気がしない。
実際榊の彼女というのも、いかにも大阪の
女っちゅう感じのべらべらしゃべりまくる女で、美人とは程遠いモンや。
俺も何回か逢うたことがあるが、気イ使う必要が無いこと以外にええ処は俺には見いだせん。
何よりも一つモノ言えば十以上返ってきそうなしゃべりっぷりには驚いた。俺は控えめな
女が好みなんや。榊もたいがいエラいと思う。
それでも榊自身にも天性のしゃべくりの効く口があるから、うまくやれる。
そんな風やから誰も榊を憎まへん。
「なんじゃ、榊やんけ。またどこぞで油でも売っとったんちゃうんかいな?」
「アホ言え。こない見えても真面目なところは真面目じゃ。」
「何しに来てん?」
「何しに来てん?...ちゅうて....ワシがここにサーカスでもしに来たように見えるか?」
「オっさんやったらシいかねんやろ?」
「ええかげんにせえ!」
「こないだの話、こんな感じで進んでるんやけど、ちょっと見てくれや」
「どないやっちゅうねん、.......ほうほう、こらええわ」
「ばっちりやろ?」
「ほんまや。...よっしゃ。仕事の話はこれでしまいじゃ。ちょっとコーヒでも
飲まんか?」
「なんじゃ、もう終わりかい!」
「遅い仕事は猫の子でもしよる。いける思うたらそんでええねん。...ささ、いこや!」
「しゃあないのー。....すんません、美穂ちゃん!ちょっとしたら戻るから...」
「はーい、いってらっしゃい」
美穂の可愛い笑顔を見ると、この男についていくのが惜しいと思うたりもしたが、俺自身も
榊の話が聞きたかったこともあるので、いかにもしょうことことなしに出ていくような顔を
作るが、内心はさほど嫌な気がしていた訳ではなかった。
俺はハンカチを出して額の汗をぬぐった。もうかなり暑い。歩くだけでも汗は流れてくる。
しかし榊の足取りはこの暑いのにも関わらず速い。もうちょっとゆっくり歩いたらええのに
と思う。
「しかし暑いがな。」
「いや....そら暑いのはええけどちょっとゆっくりとは歩けんか?」
「何いうとんねん。はよ歩かなクーラー効いた店に早よ入られへんやないか」
「そら理屈やけど...汗が吹き出てえらいこっちゃがな」
「そうボヤくな、ほれ、もう店着いたがな。」
「やれやれやの。」
「ネーちゃん!『冷コ』二つ。」
「はい」
「.........」
実はこの榊と言う男。風俗関係の情報にはやたら詳しい。こうやって俺が嫌々でも
榊の話に付き合うのは、そういう情報がこの男から聞けることがあるからや。全く榊っちゅう
男は何のためらいもなく風俗通いをしておる。俺と同じでさして高い給料を貰うてる
はずやないから、風俗遊びにつぎ込んでるお金はたいがいこたえるはずや。
「こないだ行った店の話やけどな。」
「なんやもう....相変わらずそんなことばっかりしてるんかいな」
「ほっといてくれ。ワシの勝手じゃ。....それがやな、」
「目エ輝いとるがな」
「これがまた、こんな細いウェストしてよってな」
榊は自分の手を広げて、その大きさを示す。いかにも嬉しそうや。
「その割にはなかなか乳もあるからやな、こうやってポーズ
とりよったらやな....」
「おいおい!、なんもあんたがポーズとらんでええっ!」
俺は榊の肩を押さえて何とかポーズをとるのはやめさせた。しかし
榊は衆目を感じるとよけいに声高になる癖がある。みっともないやっちゃ。
「いやいや、ほんまやて三田ハン!。こんなんやで、こーんなん!」
「わかったからそうやって乳の形手で表現するの、やめ!」
「....いや、ほんまに。....よろしでー!」
さして狭くない喫茶店ではあるがポーズまでとるようなパフォーマンスをやっておるんやから
目立たん訳がない。隣のテーブルはかなり前にジョイスティックが壊れてしもうた
ゲーム機やが、そこに座っておる若いニーちゃんまでが、興味深々にこちらを見ておる。
その目には明らかに好奇の色が現れておった。
俺は思っていた。どうしてこの榊がこれだけ遊んでいられるのか。あれほど口うるさい
彼女がいながら、どうしてこうやって風俗通いをしていられるのか。確かに憂さ晴らしに
遊んでいると言うのは納得のいく話や。しかしかかる金はばかにならんはずや。
「ええ女はやっぱり気品があるからええんや」
そんなことを頭のどこかに感じながら、俺のまばたきするほんの一瞬の間、まぶたには
美穂のふり返る姿が写っていた。