「ドリーム・チーム」の名で知られているバルセロナ大会バスケ
ットボールのアメリカ代表チームは、かつてない夢のような組み 
合わせ、まさにベストチームでした。M.ジョーダン、L.バード、 
M.ジョソンといった NBAを代表する超一流選手たちを集めて作っ 
たこのチームは、4年前の屈辱を晴らして、世界にその名を轟か 
せようと懸命でした。オリンピック開催の1年前に五輪代表メン 
バーが決定。当時、人々の心を揺るがす出来事が起ころうとは、 
誰一人として予期していませんでした。メンバー決定から 2カ月 
後、M.ジョンソンがエイズに感染している事実とともに、オリン 
ピックを最後に引退することを表明したのです。技と優美さを兼 
ね備えた米国勢は、華麗なプレーの数々で相手チームを圧倒し、 
堂々たる王者の貫禄を見せつけました。オリンピックを最後に引 
退するはずだったM.ジョンソンは、今後もバスケットボールを続 
けていくことを宣言し、ロサンゼルス・レイカーズに籍を置きま 
した。 

800m走で40連勝をした記録を持つA.キロットですが、 1988年の
ソウル五輪にはキューバが不参加を決め、金メダルへの期待は次 
のバルセロナに持ち越されました。ところが待ちに待ったバルセ 
ロナ大会でキロット選手は 3位に終わり、ファンをがっかりさせ 
ました。そして五輪から数ヵ月後のこと、彼女の人生は予期せぬ 
方向へ進んでいきました。洗濯中にお湯を沸かしていたポットが 
台所で爆発し、彼女は体の 37%を負傷するという、火傷としては 
最も重傷の "3次性火傷"を負ってしまったのです。医者は彼女の 
家族にその晩が山場だということ、そして、「死」の可能性の方 
が高いことを告げました。しかしキロットは、スポーツマン根性 
で病を乗りきり、奇蹟の生還を果たしたのです。 7ヶ月もの闘病 
生活、そして幾度もの皮膚移植を経て、彼女はトレーニングを再 
開できるまでになりました。とはいっても、いきなりキューバの 
強い日差しの中で練習することは出来ず、まずは「夜間」練習か 
ら始めました。18ヶ月も経たないうちに世界のトップレベルの記 
録を出すことができるまでになり、1995年の世界選手権 800m走 
種目では、世界が見守る中、悲願の優勝を果たし、人々の賞賛を 
集めたのです。 
英国のD.レッドモンドは、暑さのせいで400m走中にア
キレス腱を切ってしまいました。余りの痛さに、ゴー 
ルを目前にして前に進めなくなってしまったレッドモ 
ンド。それを見かねた彼の父親ジムは、息子に「使命 
を全う」させるために、群集の声援の中スタンドを飛 
び出し、彼を抱えて一緒にゴールしたのです。 

金メダルの期待がかかっていた十種競技の D.ジョンソ
ンが3位に終わり、人々は落胆を隠しきれませんでした。
今大会の注目選手の一人だったからなのですが、実はあ 
る問題を抱えていました。ジョンソンは、足を疲労骨折 
していたのです。その事実が分かったのはレースが終盤 
に入ってからでした。彼の足の状態を考えると、レース 
を途中棄権しなかっただけでも驚くべき事でした。人々 
はその事を知って呆然としました。「彼は根っからのア 
メリカ人なんです。オリンピックという最高の舞台にお 
いて途中で諦めるようなことは決してしませんよ。」ジ 
ョンソンのコーチであるT.フランソンは、そう語ってく
れました。