バスケットボール競技で負け知らずのアメリカが苦戦を強いられたの が、論争を呼んだ決勝戦。50対 51でソ連に負けたアメリカ勢は、 な んと銀メダルを拒否したのです。そして、アメリカは長い間雪辱のチ ャンスを狙っていました。翌年の1976年、ソ連はユーゴスラビアに破 れ、決勝戦でのリターンマッチは夢と消え、1980年のモスクワ大会で はソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカが不参加を表明し、 続く1984 年のロサンゼルス大会では、 アメリカ政府のソ連選手団に対 する入国手続きと安全対策がオリンピック憲章に違反しているという 理由で、今度はソ連がボイコットを決めたのでした。ソ連とアメリカ が再び顔を合わせたのは1988年、準決勝でのこと。ところが、84対78 でまたもやソ連の勝利に終わりました。1992年のバルセロナ大会でア メリカは、M.ジョーダン、L.バード、M.ジョンソンらプロバスケット のスター選手によるあの「ドリームチーム」を送り込み、ソ連はバス ケット大国の座をアメリカに譲り渡すことになりました。 |
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100m 走で不動の地位を誇っていた米国が全く振るわず、アメリカ勢で決勝まで進んだの は銀メダルを獲得したR・テイラーただ一人という惨状。アメリカの時代の終幕を印象づ けました。ただし、R.ロビンソンとE.ハートが準々決勝(予選)に遅刻さえしなければ、 少しはましな結果になっていたかもしれません。スケジュールの変更を知らずに、二人は その午後、選手村でくつろいでいたというのです。ハートの方は、4 x100mリレーで世界 新タイで金メダルを獲得し、何とかメンツを取り戻すことが出来ました。 |
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ミュンヘン大会随一の"重量"選手といえばアメリカのC.テイラー選手。 レスリング競技フリースタイルのスーパーヘビー級選手の彼は、体重 がなんと205キロもあったのです。 |
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ドーピングで五輪の金メダルをはく奪された第一 号といえば米国の水泳選手 R.デモン。400m 自由 形での優勝後に薬物使用が発覚したのです。とこ ろがこれは本当の意味でのドーピングではなく、 デモン選手は謂れのない汚名を着せられた感があ りました。というのもデモンは子どもの頃から喘 息を煩っており、決勝の前夜、喘息の発作に襲わ れた彼は、呼吸を助ける薬を服用しただけでした。 デモン選手にとっては不運としか表現のしようも ない出来事で、彼が飲んだ薬がたまたまドーピン グに触れる薬物「エフェドリン」を含んでいたた めに検査で陽性が出てしまったのです。 |