「皇族初の金メダリスト」として話題になったのはノル
ウェーのオーラフ皇太子(のちの国王オーラフ 5世)で 
した。皇太子は6m級ヨット競技にクルーとして参加しま 
した。そして、のちにエクセター 6代目侯爵となったイ 
ギリスのD.バーレー卿は400mハードルで金メダルを獲得 
1948年にはオリンピック組織委員会の委員長を務めまし 
た。 
第一回大会が開催されてから32年。この年初めて陸上競技
へ女子の参加が認められました。しかし、当初これには強 
い反対の声がありました。近代オリンピックの提案者クー 
ベルタン男爵をはじめ、ローマ教皇ピウス法王6世までも 
が反対の立場を表明していました。オリンピックが開催さ 
れ、何の問題もなくスタートした女子陸上でしたが、事は 
800m 走の ときに起こりました。 レース終了後、虚脱症状 
を訴える選手が続出したのです。その日は焼けつくような 
猛暑。男子勢のなかにも同じ症状を訴えた選手が多くいた 
のですが、その事実は伏せられたままオリンピック組織委 
員長 H.バレット・ラトール伯爵率いる特別委員会は、女 
子には 200m以上走る体力・持久力がないとして200m走以 
下の種目を除いて女子の出場を禁止してしまったのです。 
女子が全ての種目に参加できるようになったのは、それか 
ら32年後、1960年になってからでした。 
サッカーの強豪ウルグアイは、前回に引き続きオリン
ピックで金メダルを獲得。「サッカー王国」の地位を 
固めました。チームの大黒柱でウイングを守っていた 
H.カストロは、サッカー選手としてはまれにみるハン 
ディーを抱えていました。彼は、片腕だったのです。 
その2年後、ウルグアイで第1回ワールド・カップ・サ 
ッカー大会が開催され、決勝戦でカストロは決勝点を 
入れチームを優勝へと導いたのです。 

女子体操がオリンピックの正式種目となったのがこの年。しかし、当時は団体種目
だけでした。圧倒的な強さを見せたオランダ勢でしたが、運命のいたずらが待って 
いました。選手のA.ポーラック、H.ノルドハイム、E.アグステリッベ、J.シモンズ、 
そしてコーチのG.クレールコパーの5人は全員ユダヤ人。のちにナチスの強制収容所 
に送られ、ユダヤ人排斥の犠牲者となってしまったのです。