セントルイスは別名「西部への玄関口」。米国西部の辺
境地帯の開拓が行われたのもこの頃でした。当時セント 
ルイスでは珍競技、かなり並外れた競技の「一番」を決 
めるコンテストが行われていましたが、その多くは公式 
記録が残っていません。「オリンピック史に残る最もと 
っぴな競技」というカテゴリーがあったならば、一位に 
輝いたのは女子ボクシング競技だったに違いありません。 
性差別撤廃の動きは、ここミズーリー州にいち早く到来 
していたのです。 
当時はまだスポーツ競技での薬物使用の危険性は唱えられ
ていませんでした。実際、成績を上げるために薬を使用す 
ることは、当時は是認されていたのです。今大会、マラソ 
ンを制したアメリカ代表のT.ヒックス、ゴールから10マイ 
ルの地点で枯渇状態に陥ってしまったのです。しかし、心 
配することはありませんでした。彼の担当医師が、マチン 
の種子から取る中枢神経興奮剤「ストリキニーネ」を手に 
ヒックスに駆け寄り、それを処方したヒックスは立ち上が 
り、再びレースに復帰したのです。ゴールするまでにヒッ 
クスはさらに 4 回その薬を飲み、優勝へとひた走りました。
スタジアムに入ってきたヒックスは驚きました。大歓声に 
迎えられて先頭でゴールするはずが、既にF.ローツ選手が 
勝者としてルーズベルト大統領令嬢と写真に収まっていた 
のです。これには裏がありました。ローツは、冗談のつも 
りでヒッチハイクをし、レース途中で車に乗っていたこと 
を白状したのです。 

セントルイス五輪組織委員会は、今日では悪い印象しか残っていない
「人類学の日」を企画、実行しました。アジア、トルコ、メキシコ、パ 
タゴニア、アフリカそしてアメリカなど世界各国の様々な民族を代表す 
る選手たちを集め、泥の中での格闘や油を塗った棒登りなど物珍しい競 
技の数々を行ったのです。科学者、人類学者がこの場に招かれ、この競 
技の様子を綿密に記録するように指示されました。恥ずべきは、この記 
録がセントルイス万博での呼び物として公開されたことです。 


水球競技に使用された会場はあまりにもひどいもので
した。事実、このプールは元は池で、家畜牛の水飲み 
場として使われていたというのです。そのため、競技 
中にも牛が水を飲みにやって来ていました。今大会で 
はニューヨーク・スポーツクラブが、シカゴ、ミズー 
リーを下して金メダルに輝きましたが、この会場が災 
いしたのか、オリンピック閉幕から六ヶ月も経たない 
うちに3人もの選手が不幸にも腸チフスで他界してし 
まったのです。