陸上界の王者C.ルイスは、ロサンゼルス・オリンピックで強さを見せ
つけ、スーパースターの座を一段と不動のものにしました。金メダル 
を4個獲得。これは、1936年にJ.オーエンスが樹立した記録とタイで 
あり、それをC.ルイスはいとも簡単に成し遂げたのです。100m走で 
は2位に2メートルの差をつけて優勝し、走り幅跳びでは6回のうち2回 
飛んだだけで2位の記録とは30cmの開きがありました。 200m走でも 
2位以下を寄せつけず、大会新で優勝。仕上げは最終戦の400mリレー 
でした。アンカーで出場したC.ルイスは、100メートル 8秒94の足で 
世界新での優勝に導いたのでした。 
近代5種ではイギリスのD.トンプソンが2位のJ.ヒングセンが持つ世
界新タイで優勝。しかしながらオリンピック翌年の1995年に成績計 
算表が改正されるやいなやトンプソンの記録は世界新に認定される 
こととなったのです。トンプソンが優勝を決めた時、胸に《アメリ 
カよ、最高の試合と素晴しい時間をありがとう》、背中に《しかし 
あのテレビ放映はなんだったのだろうか》と書かれたTシャツを着 
てトラックを一周したのは有名。ロサンゼルス五輪ではアメリカの 
テレビ局が巨額の放映権料を支払って実況中継を行ったために、ア 
メリカ偏重主義的な放送となり、それに強い難色を示していたトン 
プソンの抗議の現れだったのです。 




アメリカ代表のレスリング選手J.ブラットニックスの人生に悲劇が襲ったのは、1977年に兄を交通事故で
失った時でした。その3年後にはプラットニックス本人が、リンパ節の腫れが徐々に全身におよぶ「ホジキ 
ン病」と診断されたのです。ひ臓切除手術と放射能治療の甲斐あってプラットニックスは不死鳥のように蘇 
り、レスリング界への復活を成し遂げました。中でも圧巻だったのは,初戦でユーゴスラビアのR.マルニセ 
ビックを負かして勝ち進み,決勝戦でスウェーデンのT.ヨハンスソンを破ってフリー超ヘビー級で金メダル 
を獲得したことでした。その時でした。兄の死後はじめてプラットニックスはひざまずいて祈り、涙をなが 
す姿を観衆に見せたのでした。