伝説的なフィンランド人の長距離ランナー、パーボ・ヌルミは、軍隊服役中に出
場したクロスカントリー・レースの際、一度処罰されたことがあります。という 
のは、大会役員達が彼のタイムがあまりにも速いので、近道をしたと考えたので 
す。パリ大会では彼は5 つの金メダルを獲得しました。トラック競技、フィール 
ド競技とも全て大会最高記録でした。 ヌルミは、イーブン・ペースを守ることが 
成功への鍵だと考え、時計を手にはめて走ることで、長距離走に革命をもたらし 
ました。ヌルミには6 個めの金メダルを取る可能性もあったかもしれません。け 
れども、フィンランド代表団は、彼は必要以上にに金メダルを取ってしまったの 
で、チームの他の者にもチャンスを残してやるべきだと主張して、彼が 
10,000 mに参加することを止めさせました。ヌルミは、オリンピックの最後に、 
優勝者の同国人ヴィユ・リトラよりも速いタイムで10,000 mを走ることにより 
抗議の意を示しました。 




風の街、シカゴ出身のジョニー・ワイズミューラーは、その力強い競泳法を
冷たく波の荒いミシガン湖で身につけました。1922年、彼は100 m 自由形 
を1分以内で泳いだ最初の水泳選手となりました。パリ大会では、彼は水泳 
で3 個の金メダルに輝き、また米国水球チームのメンバーとして銅メダルも 
獲得しました。4 年後のアムステルダム大会では、2 個の金メダルを取って 
います。彼は50 mから800 m までの自由形で一つのレースも落としたこと 
がなく、100m自由形ではオリンピック記録を24年間にも保持しました。し 
かし、世界中の多くの人びとがワイズミューラーを称賛したのは、水泳とい 
うよりむしろ、彼の出演した12本のターザン映画によるものでした。 




スコットランド人の短距離走者、エリック・リデル
の物語は、アカデミー賞受賞映画「炎のランナー」 
で再現されています。映画は、リデルとこのパリ大 
会での100 m 走の優勝者ハロルド・エイブラハムの 
物語を描きました。しかし、リデルが安息日である 
日曜日に走ることを最後の瞬間に辞退した場面は、 
ドラマチックに描きすぎだといえるでしょう。なぜ 
なら、映画の脚本とは異なり、彼は6カ月も前から 
日曜日にレースを行うことをを知っていたからで 
す。彼は優勝をさらった400 m レースに集中しまし 
た。リデルがオリンピック後に中国へ移住して伝道 
師の仕事を続け、そして第二次世界大戦中に強制収 
容所で死亡したのは紛れもない事実です。