Panasonic Pavilion 20世紀から21世紀へ


--- オリンピックと万国博覧会2/2

伊藤:“ユニバーサルな万物をエクスポーズする”という意味合いを万国博覧会はもっています。ここでも、エクスポーズ、要するにいままでさまざまなかたちで閉じられていたものを外に出して提示していくという、インビジブルをビジブルなものに転換していく問題があると思います。第1回のロンドンの万国博覧会(1851年)に何千万人の人がやってきて、世界中から集められたものを一時に見て行く、19世紀から20世紀への大きな流れのなかで万国博覧会があるビジョンをもって、そこで→削除世界中のあらゆるものが同時にさまざまな人に享受できるよう提示していく、そういうシステムができあがっていくのですね。1950年代でオリンピックと万国博覧会の比重が変わっていくという植島さんのお話でしたが、万国博覧会自体での変化もみられます。例えば、1931年のパリ「植民地博覧会」は、そこでただモノを見せるというのではなくて、人種を見せたり、民族を見せたり、例えばバリ島の舞踏が初めてヨーロッパに紹介されたりという地理的内容でした。博覧会を見たアルトーがショックを受けて、西欧的の閉塞状況のなかから新しいビジョンを出していったともいわれています。それが、1939年のニューヨーク博になると、世界中のあらゆる国やあらゆる産業を集めてくるように空間的なものを志向しながら、“未来博”と名づけられているように、未来志向つまり時間の観念がでてきます。万国博覧会が、それまでの空間的に集約しようとするものから時間的な往来まで射程に入れたビジョンを、1930年代から持ち始めたのではないでしょうか。
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植島:当初、万国博覧会を支えていたものは3つあると思うのです。ひとつは帝国主義です。帝国の汎図のなかにアジアとかアフリカとかが入ってきたわけだから、その内部のものがどういうようになっているのかとエクスポーズするのですね。まあ、汎図のなかに入ってきたから外側がない、それで外部が消滅してしまったことで帝国主義は自己壊滅するわけですが、万国博覧会はそういう帝国主義や植民地主義と密接に結びついていた側面があることがひとつ。そして、すべての人が同時に関与するという、いわゆる大衆社会、消費社会の先ぶれをやったことです。それこそがニューヨーク博だったと思うのです。もうひとつは、アミューズメント/娯楽性です。それはすごく大切な要素で、万国博覧会の跡地に遊園地しかつくられないというのは偶然ではなく、まして経費とかの問題でもなくて、万国博覧会と遊園地/アミューズメントとの間には深い関係がもともとあるのではないかと考えられます。それら3つのものが万国博覧会を支えてきました。現在まで万国博覧会は基本的にはその3つの要素をかかえてきているのですが、それらが少しづつ変質し始め、大きな変化がみられたのが1930年代なんでしょう。
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伊藤:1900年のパリ博以降、20世紀になるとニューヨークとかシカゴとかセントルイスとかいろんなところで万国博覧会が開かれ、都市の産業構造を変えていくような、そういう意味合いもでてきました。アメリカの各都市は万国博覧会を契機として、自分のところの産業構造を変えていくようなことも実際にあったんですね。日本でもそれに近いことが行われたし、万国博覧会自体が都市とか時代を変えていくときの起爆剤みたいなものになっていく流れがあったと思うのです。



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