Panasonic Pavilion 20世紀から21世紀へ


--- タイムカプセル2/2

植島:18世紀の百科全書的な発想でのタイムカプセルほど、いまの時代で魅力のないものはありませんよね。次の時代に向けてのものなのに、過去の分類学的なモノの基準でつくったとしても何の意味もないと思いますし。人の理解の偏りとか、ものの見方の違いとかの微妙な差異がパッケージできたら、そっちの方が興味あります。19世紀までの時代は、人々の要望の対象は外にありました。お茶のためにイギリスが中国に行くとか、胡椒のためにインドへ行くとか。20世紀では、一人ひとりが欲望の対象を抱え込んでしまって、自分自身にしか向かわなくなったということもあって、時間への関心は自分への関心にもなりました。もし、ほかに関心あるものがあったら時間には関心が向かわないはずですし。自分自身に関心をもつとしたら、それは過去に自分はどこから来て、現在そして未来どこへ行くか、これにしか問いはかけられないわけです。時間への問いは、もちろんタイムカプセルというのも、そういう閉塞状況ということと関係してくるかもしれない。
 ---------------------------------
伊藤:時代が必然的に自分の内部へ向かわざるをえないように状況になっていると... 。
 ---------------------------------
植島:ええ、それは個々の問題にもでてきています。1980年代後半でベルリンの壁崩壊やチェルノブイリとかいろんなことが起こりましたけれども、生命体の生存原理というのは、スケール/規模と多様性にあります。社会主義が崩壊したとかベルリンの壁が崩壊したとか、宇宙開発がとどこおったとか、1980代後半に起こったことはまさに多様性の危機だったわけです。われわれには複数の選択肢があったものが、全部なくなっていったのです。それはたまたま1980年代に起こったから象徴的にいわれるけれど、そうではなく、20世紀というのは基本的に多様性が失われていく時期、世紀の方向性が統合されていく百年だったという気がしています。
 ---------------------------------
伊藤:それに境界がなくなっています。われわれが使っていた肉体とか資本とか消費とか労働とか美とか、そういった言葉が役立たなくなっていくというのは、境界が失効していって、統一と統合が絶え間なく繰り返されてそういう状況の中に入ってしまったからだという...。
植島さんは、時間がたつとまた違うサイクルが始まるような、長期的な考え方をなさっておられますよね。
 ---------------------------------
植島:宗教学者は千年、二千年単位で考えてるし、どうせこれは循環するのだろうと考えますから。われわれのイマジネーションやその可能性というのは、こんなに貧しいのかと思い知らされています。マルチメディアとかインターネットとかの言葉が出るたびに、われわれが持っている貧しさを実感させられます。



home page

<TABLE ALIGN="right"><TR><TD><FONT SIZE=-2> <A HREF=" ../index01.html">HOME</A> | <A HREF="02.html">INTRO</A> | <A HREF="0301.html">BACK</A> | <A HREF="0401.html">NEXT</A> </FONT></TD></TR></TABLE><BR CLEAR=ALL><HR> Copyright(C)1996 MATSUSHITA ELECTRIC INDUSTRIAL CO.,LTD.