1900 Paris

 19世紀末から今世紀初頭にかけて、パリに集まってきた芸術家が好んで集ったのは、 まだそこかしこに田舎らしさも残るモンマルトルの丘周辺だった。
 有名なアトリエ、“洗濯船”や安上がりのアパート、安価で人情味あふれる居酒屋 やカフェがあり、根無し草のボヘミアンを気取る、若き芸術家たちにとっての良き理 解者も多く、暮らし易い土地柄だったと詩人のフランシスコ・カルコは伝記的小説『 巴里の冒険者たち』に書いている。
 しかし今世紀に入って、ピカソやアポリネールなどが何かしら新しさを嗅ぎつけて 、新興の町モンパルナスへと移ると、パリの芸術家村は北のモンマルトルから南のモ ンパルナスへ重心を移す。
 当時のパリは世界的な新芸術の首都として、世界各地から才能あふれる人々がその 魅力に集合していた。
 イタリアのモディリアニ、リトアニア生まれのスーチン、ロシアのシャガール、ブ ルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、そしてアポリネール。隣国スペイン からはピカソ、そしてダリ。
 もちろん日本人としてはレオナルド藤田を忘れてはいけない。
 彼らはモンパルナスの“シテ・ファルギュール”や“蜂の巣(ラ・リーシュ)”と いったアトリエから、時代を、そして美術史を塗り替る仕事を競い合っていたのだ。
 アポリネールはその詩の中で、モダニズムの精華をうたいあげ、人々は真新しいガ ラス張りの、モダーンなカフェである「ロトンド」や「ドーム」で芸術論を闘わせた。
 同じ時代、ロシアの革命家トロツキ−も左岸のカフェを拠点にし、やがて失われた 世代とよばれるアメリカ人作家ヘミングウェイも、モンパルナスで通信員生活を送り出す。
 のちにエコール・ド・パリと呼ばれる、こうした異邦人芸術家がパリに残した足跡 は大きく、パリという都市を今日に至るまで芸術の都と呼ばせるにふさわしい、毎日 が芸術祭のような日々が繰り返されていたのだ。