1900 Paris

 伝統の美術サロンに対する不満はすでに、19世紀半ばには高まりつつあった。不透明なそして不公平な審査により、 一部の画家だけがサロンに出品できるという、腐敗した体制が長く続いてきたからだった。
 1863年、その官制サロン展に落選した画家たちの「落選者展」はフランス美術史の大きなエポックとなった。 マネが描いた『草上の食卓』は、背広姿の男たちのピクニックの風景の中に、突然裸婦が微笑んでいる絵で、 一大スキャンダルとなったのだった。
 偽善的なサロン絵画に対する挑戦が始まり、やがて1884年には無審査で会費を払えば出品できる画期的な アンデパンダン展がチュイルリー公園を会場に始まる。
 マネに続いて印象派が誕生し、ドガ、ルノワール、モネ、ピサロ、スーラたちが世紀末美術史をにぎわせ、 彼らは自分たちの時代の自然にあふれる光の美しさをキャンバス上に残してくれた。芸術かくあるべしという サロンの抑圧はついにとき放たれたのである。
 そして今世紀に入ると、さらに新しい芸術が花開く。マティス、ドラン、ヴラマンクのフォービズムは、 野性的な強い色彩で自然を超え、やがて画家たちは色彩から造形や構築すら自分たちの感性で変えはじめる。
 前世紀末にスペインからパリへ来たピカソは、1907年、モンマルトルのアトリエ洗濯船時代を飾る 大作「アヴィニヨンの娘たち」を完成。
 この時、色彩はおろか、フォルムまで自然の姿から解放されるキュビズムが生まれ出た。
 ピカソやブラックはさらに変身を重ね、現代に通じるアブストラクト=抽象芸術の時代が始まったと言える。 印刷術の進歩によって、1900年代は、パリで始まった新芸術を、書物というメディアを通じて世界に広めることにもなった。 パリの芸術界のニュースは、美術雑誌や画集によっていち早く汽船や汽車に積まれ、遠く東洋の国日本にも、 大きな影響を与えたのだった。