1900 Paris

 1895年12月28日、パリのカプシーヌ通り14番地のグラン・カフェの正面に、“シネマトグラフ・リュミエール” という看板が掛けられた。
 今さら動く幻燈など猫も面白がらないよと、世界初の映画の上映をしたリュミエール兄弟と、歩合契約の慣行を 破って一日30フランの定額契約をしたカフェのオーナー、ヴォルビニは、地下の「インドの間」のたった35人の客 を見てつぶやいた。
 しかし翌日からヴォルビニは、自分がたいした安値で素晴らしい買い物をしてしまったことに気付き悔しい思い をすることになる。
 リュミエールの最初の映画「工場の出口」は、仕事を終えて工場からぞろぞろと出てくる女工たち、そして男た ちや自転車が、まるで目の前で生きている人が動くようにスクリーンいっぱいに拡がる。
 その変哲のない画面も、当時のパリジャンには充分すぎる驚きで、人々は口コミで続々と映画見物にやってくる ようになった。
 まさに20世紀を代表するエンターテイメントがこの時、世に出たのだった。三週間後には日に3000人の観客が集 まり、整理のために警官が出動するほどになる。
 映画はその後、このリュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスによって方向づけられていく。
 リュミエールは映画を「人生を再現する機械」としてとらえ、19世紀末までに多くの技師を育て、世界各地の風 景、風俗を撮影させた。
 1897年には日本にもジレルがやって来て、明治の日本を写している。
 一方メリエスは、もともと奇術師として人気のあった人物で、彼は映画をエンターテイメントとしてとらえ、当 時流行した空想科学的な世界をトリック技術によって映像化したのだった。
 1902年には二重写し、モンタージュ、クローズアップ、コマ落とし、スローモーションなどの技術を駆使し、ジ ュール・ヴェルヌの『月世界旅行』をベースに映画を作り、世界の人々を驚かせた。
 パリの1900年万博では、360度スクリーンを気球に乗って鑑賞するという出し物が出現した。それは火災の危険 があると、たった一日で上映は中止されたが、しかしその他にも映像を音と組み合わせた映画の上映など、まさに 映画の世紀がこの時華々しく始まっていたのである。