ヴァンクーバー出身で19歳の短距離走者P.ウイリアム 
スは、カナダ五輪代表選考会にヒッチハイクをして行 
きました。また、オリンピックに参加するためには列 
車に乗り込みました。しかも乗客としてではなく、食 
堂車でウェイターとして働きながら移動したのです。 
アムステルダムでは100m走と200m走の2種目を制覇し、 
スポーツ界をあっと驚かせました。大会終了後、カナ 
ダへ戻る際にも列車を利用。しかし今度の旅は来ると 
きと違って大変豪華なもので、まさしく「オリンピッ 
ク勝者の旅」といえるものでした。モントリオールで 
は金の時計をプレゼントされ、ハミルトンでは銀の茶 
器セット、そしてウィニペグではブロンズ像といった 
具合に。しかし、一番のプレゼントは地元ヴァンクー 
バーで待っていました。かつてのヒッチハイカーはグ 
ラハム・ペイジ社のスポーツ・カーを贈られたのです。 


B.ロビンソンは、本大会から正式種目となった女子陸上のスーパ
ースターでした。100m走では世界新をマークして優勝。スタンド 
を大いに沸かせました。その 3年後、1932年のオリンピックに向 
けて練習に練習を重ねていたロビンソンは、乗っていた飛行機が 
墜落し、重傷を負ってしまったのです。 7週間ものあいだ昏睡状 
態に陥りました。膝と腕を複雑骨折し、頭部には深い傷。事故か 
ら 2年間は歩行障害に悩まされ、膝は不自由なままでした。膝を 
傷めてしまってはブロックスタートが出来ない。一流のスプリン 
ターにとって膝の故障は致命傷でした。しかし、ロビンソンは五 
輪復帰の夢を諦めませんでした。ロビンソンは400mリレーにかけ 
たのです。リレーならば第一走者以外はブロックスタートをする 
必要がなかったからです。 1936年、ロビンソンは奇蹟のカムバ 
ックを果たしました。400mリレーの第三走者として出場。そして 
夢にまで見た二度目の金メダルを 8年振りに手中に収めたのでし 
た。