この年、ソ連のL.ラティニーナが体操界にデビュー。それから
というものオリンピック史上最多の計18個ものものメダルを獲 
得しました。それだけではありません。世界選手権、欧州選手 
権大会で獲得したメダルは26個にのぼり、そのうち15個が金メ 
ダルだったのです。かつて切望されたバレリーナだった彼女は 
その優雅な動きをトレードマークとし、力強さを前面に押し出 
すことが要求される現代の体操演技とは対照的なものでした。 




1956年のオリンピック女子短距離走で群を抜いていたのが
オーストラリアの二人でした。一人は農家の娘、そしても 
う一人はシドニー出身のティーンエイジャー。シドニー出 
身、18歳のB.カスバートは100m走、200m走、そして4x100m 
リレーを制しました。8年後の東京オリンピックでは 400m 
走で金メダルを獲得。一人で100m、200m、400m走種目全て 
を制覇するというのはオリンピック史上初の快挙でした。 
また、オーストラリア西部の農家から来たS.ストリックラ 
ンドは過去2回のオリンピックに出場し、計5個のメダルを 
獲得しているベテランで,今大会では80mハードルと4x100m 
リレーで優勝。オリンピック後は選手生活にピリオドを打 
ち学究生活に入り、数学者としての道を歩み始めたのです。
近年カスバートは多発性硬化症を煩っているとのことです。 


体操選手のA.ケレティはその母親、妹とともに、スウェーデンの
外交官R.ワッレンベルグの勇気ある行動のお陰で、ナチスによる
ユダヤ人大虐殺をくぐり抜けることが出来ました。しかしながら、
彼女の父親と他の家族は、ナチス占領下の祖国ハンガリーで犠牲
者となり、帰らぬ人となってしまったのです。第二次世界大戦後
もトレーニングを続け、 1952年のヘルシンキ大会では金メダル
を4個獲得。続くメルボルン大会。35歳のケレティは選手として
もピークを迎え、4個の金、2個の銀を手中に収めました。1956年
といえばソ連のハンガリー軍事介入が始まった年でした。ケレテ
ィはオリンピック終了後も祖国ハンガリーに戻らず、オーストラ
リアに留まる決心をしたのです。後にイスラエルに移住。現在も
そこに住んでいます。