Panasonic Pavilion 20世紀から21世紀へ


--- 新しい肉体の神話と美学5/3

伊藤:いまのような状態が、21世紀に入ったからといって、がらっと変わるわけではありません。長いスパンで考えると百年も二百年もこういう思考実験が続いていて、そのなかから、われわれの感じ方が変わってきているわけです。いま植島さんが文章を書くことに熱意を示しておられないのも、たぶん感じ方の変容を根底のところで感じとっておられ、ものを書いていくという行為が感じ方において(自分にとって)意味をもたなくなってきている、そういうところもあると思われるのです。私のなかにもベーシックな感覚の変容があって、それが20世紀末から次世紀にかけて大きなバネになっていって、その先に新しいフレーム(枠組み)ができていくんではないかという気がしています。もうひとつ、オリンピックというとレニ・リーフェンシュタールに注目したいですね。1936年のベルリンオリンピックを撮った映画『美の祭典』や『民族の祭典』、ヌバ族のダンスとか海中のいろんな生物とかを追う彼女を見ていると、20世紀に現れてきた新しい肉体が陶酔するというか、エクスタシーに達していくいろんな局面を提示しているように思われるのです。実はエクスタシーとは、外におくという意味があります、エクスポジションと同じく魂が外に出るイメージがあるのです。エクスタシーについては植島さんもこだわり続けておられるように、20世紀の大きなキーワードになっていると思うし、オリンピックそのものがエクスタシー化していく装置にもなっていたのではないでしょうか。ギリシャ時代のオリンピックには宗教儀礼なところがありましたよね。クーベルタンが近代でオリンピックを復活させた意味合いは何だったんでしょうか。
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植島:百年前といまと、かかえている問題はあまり違わないような気がしますが、産業革命が終わって、その展開過程ででてきた問題があります。科学技術だとか、新しい社会のあり方とかを考えていくとき、例えば機械とかロボットとかを念頭においたりしますよね。人間の身体がどのへんまで変貌できるのか、どっちからどっちへ近づいていくのかという問題がいつもあります。機械がどれだけ人間と同じことをこなせるのかということと同じように、人間がどれだけ機械と同じことをやれるのか、という問題意識の現れととらえることもできるのではないでしょうか。私は機械より人間の方が好きですね。人間がやってるから楽しいのであって、機械よりも人間の方にわくわくさせられますし、そういう感覚がオリンピックを動かしてきたと思うのです。単に記録だけでなく、やはり人間の肉体の進化というか、身体も大きく変わってきているのですから、その方向性を知りたいという願望がオリンピックを底辺で支えているのではないでしょうか。



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