1900 Paris

 19世紀末のある火曜日、パリのローマ街89番地にあるマラルメのアパルトマンの一部屋に、リラダン、ヴェルレーヌ、ヴァレリー、ジード、クローデル、ドビュッシー、ルドン、ゴーギャン、ロダンといった偉大なる才能の持主が集まって、議論に花を咲かせている。主人役のマラルメの顔も見えぬくらいに人が集まっている。それは彼らの「火曜会」の風景だ。
  芸術そして政治、また神と人類の未来について、彼らは議論し、互いに学び合い、新しい時代を切り開いていく人々であった。
  1898年、ゾラが『私は弾劾する』という一文を新聞誌上で発表した。それはフランスの政・官・商を巻込んだ大疑獄事件「ドレーフュス事件」への憤りを未来の大文豪が表明する文章であった。
  既成権力に対する異議申立てでもあるこの事件は、フランス国民を二分する大きな事件となり、パリでも左右両派が激しい争いを繰り返すこととなった。そして文学者や芸術家も自らの態度と立場を鮮明にせねばならなくなり、それが結果的にフランスの新世紀の思潮を生むことにもなっていった。
  それ以前の自然主義や象徴主義的な文学風土に対して、新世代のジードやプルースト、ヴァレリーたちは、ジードが書いたように「何か密閉された部屋に漂う臭気」を感じていたのだった。
  そしてベル・エポックの時代、絵画や演劇がはじけるように開花し出す頃、若き文学者達は「N.R.F=新フランス評論」という文学誌を創刊し、時代の空気を変えて行く。この素晴らしいメディアに多くの新時代人たちが寄稿し、彼らは知的共同体を形作っていった。プルーストも他の全ての出版社に断られた『失われた時を求めて』をN.R.F誌上で発表することができた。
  その文学運動が、やがてコクトーやアポリネールたち、エスプリ・ヌーヴォーの芸術家に受け継がれていったのである。