Panasonic Pavilion 20世紀から21世紀へ


--- タイムカプセル2/1

伊藤:1939年のニューヨーク博のときもタイムカプセルをつくって埋めたりしています。神話とかに変わりうる共有化の代用品なのかもしれません。タイムカプセルも目的によって違うでしょうが、大阪万博のは70 年代の時代を輪切りにしたタイムパッケージなのでしょうね。ニューヨーク博以来、万国博覧会そもののが時間をパッケージ化していく指向性を持ち始めていました。現代のメディア社会のデータベース化とか、博物館の問題とかと大きな関連性があると思いますが、時間をまるごと抱え込みたいという20世紀の時間に対する深い衝動の現れなのでしょう。プルーストの著書『失われた時を求めて』に象徴されるように、今世紀は速度を生きてきた世紀だったわけですが、100 年とか150 年前の電信や電話ができるまでの人間のコミュニケーションの速度は徒歩なみだったのです。それが、いまや光の速度になって宇宙空間まで伸びていこうとしています。加速度的な生を生きていかざるをえない20世紀人の根本的な衝動として、タイムパッケージというかタイムカプセルがあるのでしょう。それまでの万国博覧会は世界の民族を横断するとか、世界の国々を渡り歩くとか、世界の産業とか企業を渡り歩くとか、そういったものだったのがある時点から違うものに変換していく。速度の変化が自分たちの立っている場所そのものの性質を変えていこうとしていたのではないでしょうか。例えば、われわれ自身がこの場所にいるということさえもが不透明で曖昧になって、空間的な場所にいるということがまったく違う意味を持ち始めた時代が20世紀だったのです。百年前にウェルズの『タイムマシーン』があり、さらに前にヴェルヌが『80日間世界一周』(1873年)を書いていて、空間的旅行ではなくて時間の旅行という概念を想像力で、20世紀初頭に持ち始めるということはシンボリックなことだと思われます。ベンヤミンは「時間の内部への旅行を20世紀の人々は始めてる」といっていますが、要するに、人々は物理的な空間や場所というよりも移動とか時間そのもののなかに住み始めていて、それを表現したい場が、例えば万国博覧会みたいなものになったのでしょう。いまでているインターネット・エクスポの計画も、そういう物理的な場で何かをエクスポーズしていくというのがあまり意味をもたなくなって、もうひとつの仮想世界、もうひとつの次元のなかで、一種のトラベルをしたいという欲望が根本的にあるように思いますし、すべてが確固とした物理的な場所に存在していたものが、ある違う次元とか違う世界のなかでもう一度再構成していくというような衝動を人間は持ち始めたのではないかという気がします。



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