■等持院撮影所

 
  1921(大正10)年、
日活を離れた牧野省三が、洛北は衣笠山の麓にある禅寺、 等持院の敷地を借り建設されたスタジオである。 日活を去るにあたり、興行用映画は 作らないという約束から「牧野教育映画製作所」 と銘打ち、この地で教育映画の製作を進めていく。 しかし、すぐに経営が行き詰まり、 「マキノ映画製作所」「マキノシネマ株式会社」 とその名を変え、再び興行用映画の製作を開始する。
  この時代のマキノ映画は 旧劇の様式から脱却した画期的なものであった。 それは、完全無欠のヒーローに人間性を与え 抑圧的な社会に反逆する アウトローの苦悩を描き出していた。
  また今までにない迫真の立ち回りが観る者を 圧倒したのである。この中心に位置していた のが脚本家の寿々喜多呂九平 と阪東妻三郎であった。
  1924(大正13)年 マキノシネマは資金難のため東亜キネマに併合 撮影所も「東亜キネマ等持院撮影所」と変わる。 そして1年後、牧野省三が去ると 「東亜キネマ京都撮影所」となり 嵐寛寿郎の参加後は「鞍馬天狗」「右門捕物帖」 のシリーズを生み出していった。
 
  東亜キネマ京都撮影所