■東映京都撮影所
 

阪妻プロ太泰撮影所
(左から二人目に阪東妻三郎)
 
  総面積約22000坪、ステージ数19、 今なお「映画の都・京都」を支える日本最大の撮影所である。その歴史はまさに日本映画史そのものを映し出している。
1926(大正15)年、一面竹の生い茂る京都府葛野郡太秦村を切り開き、この地に撮影所を開設したのは、時代劇の大スター阪東妻三郎であった。阪東妻三郎こと阪妻は、日本で最初の独立プロを設立、その拠点としてこの地を求めたのである。その名も「阪妻プロ太秦撮影所」、ここから太秦という日本映画のメッカの歴史もスタートする。
しかし、その道は決して平坦なものではなかった。映画会社の盛衰の中で幾度となくその名が変わっていく。阪妻が5年でこの撮影所を去ってからは「松竹太秦撮影所」「帝キネ太秦撮影所」「新興キネマ太秦撮影所」「大映京都第二撮影所」と変化し、時代時代のスターたちが活躍するが第二次世界大戦の激化などにより、次第に製作本数は減少、休眠状態となっていった。
  この撮影所が再び活気を取り戻すのは、戦後の1947(昭和22)年のことである。東横映画株式会社が、大映からこの撮影所を借りて製作を開始。名前も「東横映画撮影所」となり、合計93本の映画が製作されている。そして、その後の1951(昭和26)年には、東横映画、大泉映画、東京映画配給の3社が合併し、「東映株式会社」が誕生する。これにより撮影所の名も「東映京都撮影所」となった。「阪妻プロ太秦撮影所」から数えて8度目の名前であった。ただその船出は決して容易なものではなかった。極度の経営不振にあえぐ中、予算主義の徹底や合理化を推し進め、占領下で禁じられていたチャンバラ映画の解禁という波に乗って、時代劇の量産を開始する。
  片岡千恵蔵、市川右太衛門などのスターをそろえ「忠臣蔵」などのオールスター映画を中心に「笛吹童子」などの少年向け映画も、観客を劇場に引き寄せた。「時代劇は東映」のキャッチフレーズ通り、この撮影所からは大量の時代劇映画が送り出され、撮影所そのものも、拡張を重ねていった。
 
  東横映画撮影所
 しかし、昭和30年に入ると、時代劇ブームにもかげりが見え始める。日本映画全体が次第に活気を失っていくという大きな時代の流れの中、東映京都撮影所は、任侠、実録路線を展開、「緋牡丹博徒」「仁義なき戦い」などのヒットで、日本映画界をリードしていく。また一方ではテレビ映画の製作を手がけ、「水戸黄門」などのヒットシリーズを生み出している。
 1975(昭和50)年には撮影所に隣接して、「東映太秦映画村」を開設。実際のオープンセットの中で撮影風景を見学できるだけでなく、映画に関する様々な資料を取り揃えて展示されており、現在でも京都観光の目玉となっている。

−主な作品−       
「蜘蛛」「からす組」「砂絵呪縛」「獄門島」「三本指の男」「旗本退屈男」「きけ、わだつみの声」「笛吹童子」「紅孔雀」「里見八犬伝」「忠臣蔵」「血槍富士」「宮本武蔵」「鳳城の花嫁」「武士道残酷物語」「反逆児」「日本侠客伝」「兄弟仁義」「緋牡丹博徒」「仁義なき戦い」「鬼龍院花子の生涯」「極道の妻たち」
 
  東映京都撮影所