日本キネマ双ヶ丘撮影所
 

  1928(昭和3)年、
片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らが
マキノを脱退、
それぞれに独立プロダクションを興し、
「日本映画プロダクション連盟」
を結成する。
日本キネマ双ヶ丘撮影所は
この独立プロ連盟が拠点とした
撮影所である。その初期には千恵プロ、
嵐寛プロを含めて6つの独立プロが
使用していたが、わずか数カ月で崩壊。
その後、
1931(昭和6)年には
振興キネマが嵐寛プロと
提携してこの撮影所を使用、
また1935(昭和10)年からは
「松竹京都第二撮影所」と改称して、
市川右太衛門プロが使っている。
戦後は電気機器会社の工場となるが、
敷地内の土地を一部借りて、
宝プロが新東宝作品を製作した。
双ヶ丘撮影所は短命であったが
多くの逸材を輩出している。稲垣浩が
「天下太平記」、伊丹万作が「仇討流転」
そして山中貞雄が「抱寝の長脇差」
でそれぞれデビューを果たした。
また、日活から独立した
入江たか子も、独立プロを設立し
「滝の白糸」を溝口健二監督で
製作している。