■マキノプロダクション御室撮影所

 京福電鉄北野白梅町駅から3つ目、妙心寺駅の北側一帯を占める小高い丘に、牧野省三が作ったマキノプロダクション御室撮影所はあった。当時、牧野は大衆文学で名を馳せていた直木三十五などを迎え、連合映画芸術家協会を発足。独立プロダクションが自由競争のもとに映画を製作配給できるシステム作りを目指した。この試みは途中で頓挫することになるが、思想そのものは、ここから巣立った片岡千恵蔵や市川右太衛門らに影響を与え、次の独立プロ全盛時代に受け継がれていくことになる。
 また牧野省三の長男、マキノ雅広(当時は正博)が、19歳にしてこの撮影所から監督デビュー。ここで彼は新鋭の脚本家、山上伊太郎とコンビを組み「浪人街」「首の座」「蹴合鶏」などの傑作を生み出している。
 1928(昭和3)年、牧野省三宅が全焼。牧野が全力を傾けた「実録忠臣蔵」のフィルムの大半が焼失した。そして、その翌年、1929(昭和4)年、牧野はこの世を去る。享年52歳であった。プロダクションは正博が跡を継ぐが、経営不振のため2年後には解散することになる。
 その後、撮影所は「正映マキノ撮影所」「宝塚キネマ撮影所」「エトナ映画京都撮影所」と名を変えるが、いずれも振るわず、1935(昭和10)年に閉鎖される。