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■日活太秦撮影所 | |
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1928(昭和3)年、現代劇部門の参加により、手狭になった大将軍撮影所から太秦へ移転してできたのが日活太秦撮影所である。 阪妻プロの南に建てられたこの撮影所は、その規模約13000坪、当時では日本最大のものとなった。 時代劇では、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演の名作「忠次旅日記」が生まれ、稲垣浩が「大菩薩峠」山中貞雄が「盤獄の一生」「街の入墨者」などを次々と放っていった。 現代劇では、溝口健二、内田吐夢、村田実、田坂具隆などの監督がそろい、入江たか子、夏川静江、梅村蓉子、小杉勇といった俳優陣も充実した。また無声からトーキーへと移り変わると、製作費の膨張により個人プロの経営が悪化、これにより阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らが次々とプロダクションを解散して、日活に入社する。まさに日活大全盛期を迎えるのである。 | |
しかし、太平洋戦争が勃発すると、映画界も臨戦体制下での拘束を受け、映画会社を三社に統合させられたのである。ここに振興キネマ、大都映画、日活が合体し、大映株式会社が誕生することになる。ときに、1942(昭和17)年のことであった。日活太秦撮影所もこれに伴い、大映京都撮影所となる。 | |
左から片岡千恵蔵、阪東妻三郎、嵐寛寿郎
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■大映京都撮影所 | |
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「ラッパ」の異名を持つ永田雅一を社長に迎えた大映は、戦時下にあっても稲垣浩監督の「無法松の一生」がヒットを飛ばし、戦後も「多羅尾伴内」シリーズや「手をつなぐ子等」などで業界トップの成績を挙げていった。そして、ここから日本映画の舞台は世界へと飛躍するのである。 | |
1951(昭和26)年、ヴェネチア国際映画祭で黒澤明監督「羅生門」がグランプリを受賞、次いで溝口健二監督の「雨月物語」「山椒太夫」が2年連続の銀獅子賞、カンヌ国際映画祭では、衣笠貞之助監督の「地獄門」がグランプリを受賞する。世界中が日本映画の芸術性の高さに驚嘆したのである。また、日活以来のスターに加え、市川雷蔵、勝新太郎、京マチ子、山本富士子らを輩出、「眠狂四郎」シリーズや「座頭市」シリーズを生み出していったのである。 しかし、その終息はあっけないものであった。映画産業そのものの衰退とともに、大映は急速にその力を弱め、1971(昭和46)年に倒産。撮影所はその後も貸スタジオとして続けられるが、次々と敷地は切り売りされ、1986(昭和61)年に完全閉鎖、日活太秦以来の輝かしい歴史の幕は閉じられた。 |
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左から三島由紀夫、五社英雄、勝新太郎
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