山中 貞雄
(監督 1909〜1938年)

 京都市生まれ。1927年、母校の一年先輩であるマキノ正博を頼って、マキノプロに入社。しばらくはマキノの助監督を務める。その後、東亜キネマでシナリオライターとして修業した後、第1回監督作品「磯の源太・抱寝の長脇差」を発表、好評を得る。その後5年間で20本以上の監督を努めるが、37年に召集、翌38年9月、戦地中国にて病死。享年29歳であった。山中の監督作品で現存するのはわずか3本、すなわち「丹下左膳余話・百万両の壷」(35年)「河内山宗俊」(36年)「人情紙風船」(36年)で、いずれも傑作ぞろいである。もしも山中が戦地から帰り、再びメガホンを取っていたならば、日本はおろか、世界の映画史が書き換えられていたと言われる天才映画監督である。
−主な作品−
「磯の源太・抱寝の長脇差」     
「小判しぐれ」「小笠原壱岐守」   
「口笛を吹く武士」         
「右門捕物帖三十番手柄・帯解け仏法」
「天狗廻状」 「風流活人剣」    
「丹下左膳余話・百万両の壷」    
「街の入墨者」「怪盗白頭巾」    
「河内山宗俊」「海鳴り街道」     
「森の石松」 「人情紙風船」