■J.Oスタジオ
 
 
  1933(昭和8)年、カメラの輸入業者であった大沢商会が、トーキー映画に対応した本格的な貸スタジオとして設立したのがJ.Oスタジオである。
太秦上刑部町にある約2000坪の敷地に建ち並んだ近代的な建物は、当時の人々に衝撃を与えたといわれる。この貸スタジオを「太秦発声映画会社」が使用、山中貞雄監督の「河内山宗俊」などを生み出している。
翌年の1934(昭和9)年、J.Oスタジオは製作会社として再スタート、トーキー技術を駆使した音楽映画や、ドイツのテラ社と共同製作した「新しき土」(伊丹万作監督)などを作っていった。
 1937(昭和12)年、J.Oスタジオ、P.C.L映画製作所、東京宝塚劇場、写真科学技術研究所の4社が合併、東宝映画株式会社が設立する。J.Oスタジオも東宝京都撮影所となった。この時のスター引き抜き騒動がもとで、林長二郎(長谷川一夫)の「顔切り事件」が発生している。その後は、大河内伝次郎、長谷川一夫の時代劇とともに、エノケン、ロッパ、エンタツ・アチャコなどによる喜劇が多く生み出されていったが、1941(昭和16)年臨戦体制のもとに閉鎖される。  
  中央 円谷英二