みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか 平兼盛
しんしんとした秋の奥州、安達が原。 夜も更け、寒くなったので、女は留守のあいだ決して私の寝室を覗いてはならないと 固く戒めて、旅人を暖めるために山へ薪を採りにでかけました。 女の様子をあやしんだ祐慶のお供の能力が、約束を破って寝室を覗くと、そこにはお びただしい人の死骸。その腐臭のもの凄さに仰天し、祐慶たちを寝床からたたき起こ し、一行は一目散に逃げ出しました。 山からもどった女は、寝室を覗かれたことを知り、裏切られたと怒り狂い本性の鬼女 となって、鉄杖を振りかざし激しく祐慶たちを追いかけます。祐慶は五大明王に祈り 、数珠をもみ必死に応戦します。いつ果てるともない戦いの末、ついに鬼女は祈り伏 され、己の秘密を暴かれた無念の絶叫を残し、夜風の中へと消えて行くのでした。
能「安達が原」では、女が鬼の本性を表わす動機が、「道成寺」「葵上」「鉄輪」の ように愛の復讐ではないということがわかります。むしろ内省的な羞恥の情に発して いると考えられるからです。 中世、数十年におよぶ南北朝内乱がゆえにうまれた、悲劇の流浪の人々。社会的な変 動にともなった生活流転のはてに、未来を失い、いちじるしく非社会的な存在となり はてた女の生涯。 空しいにもかかわらず、けっして諦めきれない今世への強い愛着。 そして旅の僧による、この残酷な最後の背信行為。 かずかずの情念の贄(にえ)を秘めた部屋をのぞかれた女が、羞恥のきわみ、鬼とな ることは、むしろ美しすぎるくらい人間的であるともいえる。
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